北朝鮮が報道の「日本軍慰安所」は、「鮮人遊郭」もしくは朝鮮人用の「売春宿」
朝鮮日本軍性奴隷・強制連行被害者問題対策員会(조선일본군노예 및 강제련행피해자문제대책위원회)は慶興に日本軍「慰安所」があったと2018年8月、発表しているが(↓)、当時の朝鮮現地を知る引揚者から、日本軍慰安所はなかったと指摘されている。
「(2018年) 8月14日、北朝鮮日本軍姓奴隷・強制連行被害問題対策委員会は、戦時中に北東部・咸鏡北道の慶興郡・慶興面に日本軍の「慰安所」があったことを確認したとし、14日に調査報告書を発表した。朝鮮中央通信が伝えた」この報道全文は、
https://www.excite.co.jp/news/article/DailyNK_Japan_114725/
その指摘する場所は朝鮮人部落だったところにあり、「鮮人遊廓」、または、朝鮮人用の「売春宿」となる。
朝鮮中央通信が証言者として紹介した日本のナカムラさんに生前、当方が直接、本人に確認したところ、「日本軍慰安所」とは断定しなかった。
「日本軍慰安所マップ」を公開 女たちの戦争と平和資料館 カナコロ 神奈川新聞社
( アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam、東京都新宿区))
でも、『軍隊と性暴力』第一章(現代史料出版)や『『植民地遊廓』の虚実』(吉川弘文館)から間違って引用されている。この「~マップ」が証言として出しているものについては再考が必要である。
参考文献など
13. 朝鮮人(用)遊廓 52軒 (まで)の所在地を掲載。『축배 tyuppe』No.19, 宮塚コリア研究所 2022.4.23
12. 自分たちのこと(「鮮人遊郭」)は述べていない、平田賢一「vol.7 朝鮮を語ろう」『月刊イオ』2020. 9 朝鮮新報社
11. 女たちの戦争と平和資料館「日本軍慰安所」マップに対するコアな引揚者らの指摘 『축배 tyuppe』No.15, pp.6-11, 宮塚コリア研究所, 2020年7月18日
10.『『植民地遊廓』の虚実』ある凡人の追憶・私見・独白-赤尾覺 覚書, レインボー出版, 2019. 4.30
9. 「鮮人遊郭を日本軍「慰安所」と報道し、賠償金徴収を目論む北朝鮮」,『축배 tyuppe』No.12, pp. 35-38, 宮塚コリア研究所, 2018年11月17日
8. 日本統治時代の現地のことを今現在北朝鮮にいる人がコアな引揚者の方々より知らず、近年行なわれた北朝鮮墓参旅行の同行の報道関係者も最初は気付かなかった北朝鮮墓参旅行の欺瞞を指摘した『望郷 第12号』
7.昭和19年3月、日本政府は戦局の厳しさ、戦況の悪化に伴い、「決戦非常措置要綱に棊ずく学徒動員実施要綱」を閣識決定し、学徒、学生の動員を小学校高等科生、中等学校低学年にまで拡大、さらに「女子挺身隊制度強化方策要綱」を閣議決定し、小学校高等科女子、女学校生徒を卒業と同時に「女子挺身隊員」として、軍需工場その他への動員を可能にした。
これは全国的であったから、朝鮮でも台湾でも同様だった。終戦前には朝鮮半島では「慰安婦」「慰安所」という言葉は聞かれなく、また、問題にもなってなかったとされている。
今「慰安婦、慰安所云々」と語っている「元慰安婦支援団体」は、当初「韓国挺身隊問題対策協議会」との名称であったが、「慰安婦、慰安所」という言葉は、為にする名称として近頃、目にするようになっている。
6.朝鮮南方のなまりを聞いたのは、次のような事情からだと考えられる。
朝鮮半島北部は地下資源が豊富で、当時、この関係企業・工場、さらに日本本土から移転してきた日本製鉄はじめ、三菱等々の工場、製作所が多く存在していた。このため働く場所が多く、貧しいからといって「カルボチビ」、「スルチビ」と呼ばれた売春宿で働かざるをえない女性は少なかった。働かされた女性のほとんどは朝鮮南部の者で、貧しさゆえに親から身売りされた若い女性だった。だから朝鮮南部なまりを聞くことができたのである。羅南も同様だった。
5.なお、『植民地遊廓』(吉川弘文館) には少なからぬ間違い、曲解、全体の切り口・視点の乱暴さが、『軍隊と性暴力』(現代史料出版) の会寧の項に引き続き、コアな引揚者から指摘されている。中朝国境沿いの遊郭は当時、日本人、支那人、満州人、朝鮮人、ロシア人らが利用。需要のあるところにあったのである。
4.『全国清津会 会報 平成28年』p.26 上段の伊藤孝司氏写真は、建物全体、平屋建て、窓の作り、煙突などから、「日本軍慰安所」ではなく「鮮人遊廓」とは、幼少の時から羅南に住み、遊廓の近くにあった煙草屋のおばさんから、遊廓で働く女性の話しなどを聞くなど当時の羅南現地を知っている(終戦時の)引揚者。曰く、羅南には「慰安所」はなかった。
『촉배 祝杯 No.12』 (詳細はここをクリック)宮塚コリア研究所 「歴史の闇に埋もれる前に」、一般(日本人)遊廓と「鮮人遊廓」の典型的な違い
3.「鮮人遊郭」の出典例 ⇒ 『羅南憲兵隊史』羅南憲友会編 羅南憲友会 1981年
羅南市街の東南部、美吉町を通り、鉄道のガード下をぬけたところの遊廓街の北東のどぶ(小さな堀)の向こう側の4軒の遊廓が「鮮人遊郭」だったことを示している。『『植民地遊廓』の虚実』(レインボー出版) p19 、羅南市街写真の左端、上から1/3 ほどの少し明るいところ辺り。
『植民地遊郭』(吉川弘文館) p.146 の笑山楼、それに 羅南館、平壌楼が「鮮人遊廓」か。
当時の羅南の詳細な地図 (作図 タカハシ) あります。
2.日本人と朝鮮人はとても仲が良かった 『朝鮮総督府官吏 最後の証言』江原道行政官・西川清氏(平成26年現在 99歳) 桜の花出版 慶興のその場所の状況とこの本を読めば、はっきり、そこは「日本軍慰安所ではなく、朝鮮人用のところだった」ことがわかる。⇒ 朝鮮半島の日本統治時代には役場があるような大きさの村であれば、どこでも朝鮮人用の「売春宿」(カルボチプ 갈보집 )、「スルチビ (술집)」(居酒屋)があった。
1.その指摘する場所の地図は『植民地遊廓』(吉川弘文館) p.206。元丁橋から羅先に向かう道の途中を右に曲がって2kmほどのところ。
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